always give my love to you
text : 佐藤嘉洋
武田邦彦先生の勧めでトルストイの『戦争と平和』でロシア文学童貞を佐々木希クラスの高嶺の花相手に捨てた佐藤嘉洋の読書感想文。必見です。
2016年6月、昼下がりの和風カフェで、私たちはブツブツと小理屈をこねくり回していた。そんな折、なぜだか理由は覚えていないが話題はロシア文学のことに及んだ。
「ロシア文学をまだ読んだことがないのですが、何かお勧めを教えてもらえませんか」
「トルストイの『戦争と平和』はどうですか。これには人生のすべてが書いてありますからねえ」
そう言って、武田邦彦先生は抹茶杏仁豆腐をひとくち頬張った。
私は特に何の疑問も持たずに、懇意にしている豊田市の原田屋書店から同書を早速取り寄せ、読み始めた。それがロシア文学の最難関本とも言われているとは知らずに。
「ロシア文学童貞」の私が、ロシア文学最難関本に挑む。言うなれば、佐々木希クラスの高嶺の花に対し、恋愛経験に乏しい童貞男が必死にアタックをかけている感じだろうか。
後日、「いきなり一番難しいのを出しちゃったから、まずは『イワンのばか』あたりから始めてみたらどうか」と、武田先生は再提案してくれた。しかし「もう読み始めちゃったんで、がんばってみます」と、返してしまった。
元より呑気なこともあるだろう。ただ、到達の難しそうなゴールを目指すには、自分に期待をかけてくれている人に「やります!」と最初に宣言してしまうのがいいということも私が経験から得た教訓だ。
「なんだ、彼は口だけだったか」と、尊敬する師匠からの信用を落としてなるものか。そう思えば、目標に向かって努力を持続できるというものだ。
現役時代も同じだった。ジムの会長や先輩からの期待、後輩からの憧れに対し、なんとか応えたいと思い続けて選手生活を過ごした。自分のことをなるべく俯瞰して見るようにし、カッコいい人間になれるようにがんばって振る舞い、演じ続けてきた。すると、無理して演じていたはずの自分が、自然と自分自身そのものへと変わっていくのだ。
読破すると決めて以来、電車移動時を中心に3ページも読めば睡魔に襲われるという苦痛に耐えながら、コツコツと毎日少しずつ読み進めた。
私は戦争モノがそもそも苦手で、世界史に疎いときている。本書で出てくる「ボナパルト」が、かのナポレオンの姓だということすら最初は知らなかった(そう考えると、私は世の中のことを何もわからない無知な男と愕然とするが、知らなかったことを知ることのできる幸せというものも同時に噛みしめている)。
しかし「ナポレオン」と名前で呼んだり、ときには「ボナパルト」と姓で呼んだり、その呼び方の使い分けでトルストイは登場人物たちがナポレオンに対してどのような立場、あるいは態度を取ろうとしたのかを表現していたのだろう。
一冊目を間もなく読了する頃、東京で住友ベークライトの社員研修での仕事を武田先生とご一緒することがあった。
「先生、ようやく半分読み終わりそうです」
少し得意げに言ってみたが、表紙をよくよく見てみると、そこには①と表記されていた。私は読んでいたのが上巻だと勝手に勘違いをしていた。調べてみたら全④巻。そう気付いたときの絶望感たるや。 まさしくorzな気分でがっくりと手をついた次第である。
1巻だけで700ページにも渡り、これでもかと文字を詰め込まれ、登場人物は559人にも上る。そのボリュームが全④巻も! しかし、私はめげない。一度決めたらやり通す、それが佐藤嘉洋である。継続力の狂鬼として、必ず成し遂げてみせる。
物語の大きな流れは、フランス軍によるロシア遠征、あるいはロシア軍による祖国戦争を中心として、ロシア貴族階級の人々の心理や恋愛模様など人間関係が実に事細かく描写されている。
世の中のテクノロジーや産業は驚きの速さで発展を遂げているが、とどのつまり、人の本質的な部分の精神や、あるいは幸福のあり方については、今とほとんど同じで変わっていないことがわかった。
②巻に入り、登場人物の相関図が頭の中でようやく構築され始め、だんだんと感情移入できるようになった。そう、高嶺の花である彼女の心を少しずつ掴み始めた段階、というわけだ。しかし、まだ童貞君である。
③巻になると、物語にさらにのめり込んでいくように。例えれば、ペッティングが終わったあたりと言えるだろうか。
そしていよいよ最終の第④巻、つまり念願である身体が結ばれる段階に突入したといっていい。間もなく童貞喪失、である。
しかしストーリーの途中で何度もトルストイの複雑な考察が入り、「ちょっと待って」と挿入は遮断される。「もうダメだ」と、何度心が折れかけたことか。まさしく中折れ状態、である。
想像してみてくれ。恋愛経験に乏しい童貞君が、佐々木希クラスの高嶺の花に筆下ろしをしてもらう緊張感、あるいは不安感、あるいは焦燥感、あるいは絶望感、あるいは恐怖感を。
だが、ここまで読み進めた胆力を信じるしかない。もう、怖いなどと言ってはいられない。必要なのは振り絞って突き進む勇気だけだ。イけ!
たくさんの人が死んだが、最後はハッピーエンドと言っていいのだろう。最終巻では涙の滲むシーンが何度もあった。そして無事に本編を読み終え、ロシア文学の筆下ろし完了となった。
もし映画化するならば……そんなことを考えた。エンドロールには倉木麻衣の『always』オーケストラ・バージョンを流したいと序盤から感じていた。物語が終わった今は、それが確信に変わっている。
「それはない」とバカにすることなかれ。『always』こそふさわしい。なぜならこの曲の歌詞に、
always give my love to you.
という一文がある。これはまさに、ピエールのナターシャへの愛そのものじゃないか! もっと言えば、この歌詞のような想いが『戦争と平和』に登場する人々の根底に流れていたように私は感じている。
しかし、だ。だいたいの映画がそうであるように、本書は本編だけでは終わらなかった。そう、エピローグや後書きだ。さながら事後のピロートークと言えようか。ここを怠っては次の機会は得られないだろう。
一発屋で終わらないためにも(ちょっと違うか)、ここで終わるわけにもいくまい。
未熟だったこともあり、童貞を喪失できたことに満足してしまい、そのあとの付き合いを怠った結果、簡単に縁は途切れ、そのあと2年も彼女ができず長いブランクができてしまった。
あ、これは私の17歳直前から19歳にかけての実話。だからこそ、今回のロシア文学童貞喪失は念入りに、とても丁寧に、本そのものとじっくり向き合って読み進まねば、である。
しかし、である。このエピローグにおいてトルストイによる怒涛の小理屈こね回し哲学が延々と炸裂し続けるのである。
「自由」と「必然」について考察しているが、これはもはや論文と言ってもいいレベルだ。1ページを読み切るのに5分はかかる難関をまさか最後の最後に持って来るとは! トルストイ、えげつない!
一度読み切ったもののまったく理解できなかったので、エピローグ(なんと100ページに及ぶ!)だけ翌朝に再読し、そしてなんとか完全読破を達成したのである。
大げさに感じるかもしれないが、この本を読んでいる間に私にとっての人生に広がる景色が変わっていった。
今、ここに生かされている奇跡。自分の肉体がこの世に存在している、宇宙の歴史から見れば一瞬ともいえる時間。それが、人生。
死に直面した人物の心理描写を芸術的に、そして哲学的に描き切ったこの作品は、難解な1ページを歯を食いしばって読み進めるごとに心は磨かれていき、感性もまた大きく育まれていった。
トルストイは生きながらにして、死も見えていた。
自分の血を一滴一滴インクにして、原稿用紙を埋めていったかのような覚悟と情熱を感じた。究極的にとっつきにくいが、この本を読み進めたこと自体が、私の人間的な成長を促し、感情を豊かにしたような気がする。
「戦争と平和をとうとう読破したよ!」
興奮して妻に嬉々と報告したら、
「ふーん」
と無下にされた。が、磨かれた私の心、大きく育まれた私の感性はくじけない。
always give my love to you.
憎まれ口をきく妻にも愛を捧げようではないか。
愛……個人の立場や利害にとらわれず、広く身のまわりのものすべての存在価値を認め、最大限に尊重していきたいと願う、人間に本来備わっているととらえられる心情。
~新明解国語辞典第7版より~
みなさんこんにちは、愛を知る県の佐藤嘉洋です。最近、愛を知りつつありますが、妻は子育てに大変そうです。
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