「自分」という物語

posted : 2016/06/21

K−1MAX時代、渋谷のスクランブル交差点で、試合後にはよく物思いにふけっていた。城戸康裕とのエキシビジョンマッチの後にも久しぶりに立ち寄った。

2005年からK-1MAXに出るようになって以来、試合後の取材件数が爆発的に多くなった。名古屋に戻らずに延泊することもしばしば。その頃、試合翌日に渋谷のスクランブル交差点のTSUTAYAに入っているスターバックスによく立ち寄るようになった。1階でドリンクを注文して受け取り、2階にある客席に座るという店舗の作りだった。試合後の取材や仕事がひと段落すると、ここで一人、前夜の激闘を振り返り、アイスラテのトールを飲む。店内はいつも大勢で賑わっていたけれど、知り合いは誰もいなかった。私はそんな群衆の中の孤独がとても心地よかった。

 

スクランブル交差点の信号が青になり、何百という人が一斉に動き出す。一人ひとりは別々の人生を歩んでいるはずなのに、何らかの意思を持つような一つの集合体にも見えた。信号が赤に変わると、通行人を遮断するかのように左右から車が往来し、また次に信号が変わると左右にいた車が一斉に止まり、今度は縦向きに車が規則正しく流れていく。

 

信号という人が作った機械(あるいは概念)に我々は当然のように従い、動く。2階の席から文字通り俯瞰して人や車の往来を何時間も見ていると、いつも不思議な感覚に包まれて、私は毎度のように独り言をぼそ、とつぶやくのだ。

 

「生きててよかった」

 

そして、そんな心境の時には妙に筆が進む。私は作家になる以前から書くことが好きで、2006年4月にマイク・ザンビディスとの熱戦を制した翌日にもここに来て、カバンに忍ばせていたノートにボールペンで思いの丈を書きなぐっていた。その手記をここで初公開しようと思う。

画像提供・BoutReview
【画像・Boutreview】

〜〜

街を歩く大勢の人々、その一人ひとりに自分だけの物語がある。

みなが「自分」という物語の主役を演じて、人生を歩んでいる。

他の人から見れば、それぞれの物語なんか別にどうでもいい。

自分は「自分の物語」しか、決して演じることができないし、誰もそれ以外は気にしていない。

だから、肩肘張らずに自分の思うように生きてごらん。

そしてもう一つ。辛いことも楽しいことも「自分」という物語の過程だということ。

辛いことがなければ楽しいということを実感することはできない。

楽しいことばかりが書かれている小説なんて、読んでいて楽しくはないでしょう?

人生は起伏があるから面白いんだ。

 

死にたいと思った次の日には、生きていて良かったと思える日が来るかもしれない。

そう、「かもしれない」だ。何も保証はない。

けれど、そんな可能性があるだけで人生は刺激的であり、生きている甲斐があるというものだ。

 

もちろん、その逆もまた然(しか)り。生きていて良かったと思った次の日には、地獄のどん底に突き落とされるような日になるかもしれない。

そんなときは、自分自身のポジティブな方の「かもしれない」を信じて、じっと我慢するのだ。

 

死ぬ瞬間に笑顔であれば、人生は勝って終わる。

この世から自分という存在が消えてなくなるとき、最期くらいは「生きていて良かった。楽しい人生だったな」と少しでも笑ってから、この世から消えたい。

僕はそう思います。

 

どれだけ負け続けようが、信念をもって生きられるなら、何も恐いものはない。

そのためには、周りの協力が必要だ。

人は一人では生きていくことができない。

誰かと出逢い、自分を必要としてくれる人、自分が必要だと思う人を、これからもこの先も作っていけるかどうか。

 

誰かが支えてくれることによって、信念を育み、人は生きていける。

どれだけ勝ち続けても、どれだけ負け続けてもどちらにせよ、支えてくれている人への感謝を忘れてはならない。

なぜなら、あなたは一人で生きているのではない。

誰かに生かされているのだから。

〜〜

 

あれから10年の月日が経ち、文章は変わらず書き続けているけれど、ノートとボールペンの代わりに、iPhoneのメモ機能を使うようになった。これからまた10年後の2026年には、私は何を使って自分の思考をこの世に残しているのだろう。

 

つい先日、城戸康裕と2009年以来の実に7年ぶりにリング上で対峙した。もちろん「ガチ」ではなく、エキシビションマッチである。城戸は直後の6月24日にK−1での試合を控えているため、彼に怪我をさせないように、なお且つ観客にもなるべく喜んでもらえるように、相応の「かなり強め」に蹴った。そのあたりのさじ加減は難しい。

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現役時代と同じ、いつもの入場曲が鳴る。直前のオファーにも関わらずセコンドについてくれた山本優弥と目を合わせ、うなづいてから花道を進んだ。リングに立って名前をコールされたとき、「ああ、やっぱり引退してよかった」と感じた。戦えないことはない。痛いだけなら我慢もできる。しかし、本気で戦うことは違う次元にある。それに耐えられる気力はもうない。強くは蹴るが、それが勝敗につながるわけでもないということに、妙に安堵している自分がいた。

 

相手を叩き潰すという自分の気持ち、自分を叩き潰すという相手の気持ちがなければ勝負は成り立たない。だからこそ、勝負は観る者を魅了するに違いない。示し合わせた馴れ合いの似非(えせ)真剣勝負では、身内以外の誰かを感動させることはない。ファイトスタイルが地味だのなんだのとよく言われたが、たくさん応援してくれた人がいた理由はそこにあるのだろう。戦う気持ちだけは、現役の最後の最後まで徹底的にプロフェッショナルであったという自負がある。

 

今回の動きを見た後に「まだまだやれたんじゃないの?」と、たくさんの人にありがたいお言葉を頂戴した。しかし今の私には、戦う気持ちが決定的に欠如している。だからエキシビション以外の試合はやれない。やる資格もない。今は、周りとの調和を優先している。しかし、その調和を守るために、心の奥底に潜んでいる闘争心を湧き起こし、ときには徹底的に戦うこともあるかもしれない、ということは伝えておこう。

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そんなわけで、城戸康裕とのエキシビションマッチの翌日にも、久しぶりに例のスターバックスに立ち寄り、6月23日発売のゴング格闘技の連載コラム『佐藤嘉洋のキック千一夜』を書き綴った。筆の進みもよかった。だからぜひ、読んでいただきたい。連載以来、とうとう初のカラー掲載だ。

明るく生こまい
佐藤嘉洋